忘れられない夢

息子が4歳の時40度の高熱を出して意識不明になりました。
近所所の小児科から阪大病院へ移されました。
当時の阪大病院は中之島の淀川のほとりに聳えて居ました。
病名は「脊髄漿液性髄膜炎
若くてイケメンの主治医の口から発せられた惨い宣告とは
「今の高熱が下がったとしても脳障害は残ります。」
暗澹たる思いで聞いて居た夫は、気でもふれたように、
「その時は僕がこの子を殺して刑務所に行く、おまえは
残る6歳の娘を育ててくれ。」私は無感動で聞いていました。
入院してから相変わらず高熱で意識不明のままの状態が4日ほど
続いていましたが、このまま醒めないで欲しいと思いました。
5日目の朝床にマットを敷いて寝ていた私は夢を見ました。

大叔母さんが私の傍に来て、「スミちゃん早よ帰るデ、ケンちゃんを
おんぶするケー荷物を持チンサイ。」(鳥取弁です)
そして鳥取駅の改札前でおんぶしていた子を下ろして私に渡し、
「大事に育てんさいよ。」と言って消えました。

ハッとして目が覚めるやベッドをのぞき込むと、ぱっちり眼を開けた
息子が私を見つめていました。
早朝5時頃でしたが、大声で看護師さんを呼びました。

イケメン主治医さんは何事も無かった様にジュースを飲んでる息子を
見て、「不思議だ!奇跡だ!」と唸るのみです。
兎に角障害も無く、刑務所にも行かなくて済み万々歳の出来事でした。

大叔母さんの説明をします。
小学生の頃、郷里の鳥取では女性が離婚すると片身の狭い暮らしを
強いられていました。母の実家で一度大叔母さんに会ったことがあり、
そんな身の上だったそうです。
それから再び会ったのは高校生の時、母に連れられて行った鳥取市内の
外れに並んだ長屋のひと間でした。
年老いてたった一人で優しい長屋の人たちに助けられながら暮らしていました。
私は通学路の通り道だったのでそれから度々寄り道する様になりました。
いつも嬉しそうに茶菓子でもてなして貰うのが目的だったのかも。
いつしか体調悪く寝付いて仕舞われました。
そして臨終の時、傍には近所の方々と身寄りは私だけなので、
死に水を取り、皆様に教えて貰いながらお別れの準備をしました。

息子の病気は確か10年ぐらい後の出来事です。

あすは明るいニュースを書きます。

 

 

 

 

 

 

 

第三章  「禍福は糾える縄の如し」

はじめに。

最近スピリチュアル系に拘わるYouTubeが大変多く、
凄い興味津々で読み漁っています。
そして人生の終活に臨んでる自分が、これから先
何に誘われて何処へ向かって行こうとして居るのか、
そんな事を思いながら、それでは過去の自分は、、、
自分の意思だけでなく何かに導かれた人生行路だったのだろうか!

様々な思いを巡らせては、生きてるって事が凄く神秘的に
思える今日この頃です。

タイトルに掲げました様に人生の「禍福は糾える縄の如し」が
どんなもので有ったのかを振り返ってみたいナと、4ヶ月前まで
書いていた「旅行記」とは異なり、生活の中に経験した色々な
出来事を思い出すことからランダムに書いてみようかなと思います。
私が占いとかスピリチュアル系を好むのは母の影響だと思います。
小さい頃からお寺や神社、祈祷師の処など連れて行かれてた記憶があります。
霊感が有るわけではないけれど、夢だけはよく見て、予知夢のことが
多いのです。
先ず初めにその予知夢を感じた出来事をお話します。
長くなるから明日に持ち越します。    つづく。

 

 

 

旅行記最終章

2021年5月15日
「想い出はすみれ色」は始りました。
写真好きがついつい記録として残していきました。
終活年齢に到達して、このままだと家族に迷惑をかけると、
気付き、処分する前にどうにかして残したいと考えたのです。
書き始めてこんなに旅行をして居たなんて改めて気付きました。
写真を取り出すとすっかり忘れていたその場に戻り、走馬燈の様に
蘇る思い出を楽しみながら書き綴りました。
「海外編」は見落とし無く書きましたが、「国内編」は同じ処を
何度も行ったりしてるので、収まりが付かない箇所もありました。
又書いてない箇所
八女茶を試飲。耶馬溪の柚胡椒、大分人形。伊豆明徳寺の「おまたぎパンツ」
等忘れられない土産物も観光地もありました。

ちょうど1年続けて終止符が打てそうです。
つたない文章、見苦しい下手な写真で辟易されたかも知れませんが、
長く読んで頂きまして有り難う御座いました。

又違った形のブログで出直したいと思って居ます。
先回の沖縄の写真を少し載せて終わります。

   

   

    

  


有り難う御座いました。♪♪







 




 

沖縄復帰50周年記念日

2022年5月15日は沖縄本土復帰50年記念日だそうです。
一週間前から関連ニュースを各TV放送で聴いて来ました。
沖縄の人々にとっては並々ならぬ複雑な思いがあるそうで、
私達のように本土の政治下にぬくぬくと生活して居る者からみれば、
想像も出来ないような辛いことも抱えて毎日を生活されてる
場面も有るみたいに感じました。
私が一番胸に刺さったドキュメントは、太平洋戦争の終戦後、
沖縄で一番早く復興を手がけたのは「市場」だったそうです。
携わったのは8割が女性、男性は戦争で亡くなり、2割の参加。
終戦直前に勃発した悲壮な沖縄戦で、多くの兵士が戦死したのです。
そして1972年5月15日に沖縄の執政権がアメリカから日本国に、
変換されました。
TVのインタビューで、「沖縄が戦争を起こしたわけじゃない!!」
犠牲を伴った憤懣をはき出していられる様な方が居ました。

2010年4月MDRT日本会が沖縄で開催されました。
例のごとく一日早く沖縄へ入り、レンタカーを借りて市内観光
するべく計画を立てました。
その日空港からすぐレンタカーに乗り込んだ仲良し4人グループは
大はしゃぎで窓の景色を眺めていました、、、
アウトレット通りの●ーチ鞄店に気づいたR子さんの要求で
車を止めました。 一寸だけの積りが4人共釣られて必死の形相で、
品物を漁っています。その内ホテルに入る時間が来ました。
結果レンタカーはホテル行きだけの用途で終わりました。

1996年3月24日~27日
夫と娘夫婦4人で行った沖縄旅行は、いまでも鮮明に思い出すくらい
異国情緒をゆっくり楽しんだ良い旅でした。
2回目に行ったMDRTの時はあの日をもう一度思い出そうと4年振りに
変わった市内を観光したいとの希望が潰えた訳です。

(コピー故障で写真が間に合わないので写真は次回に貼り付けます。)

 

 

 

東日本大震災の想い出 no2

自然の驚異と人間の知力とのいたちごっこを繰り返しながら、
人間はこの地球に住み続けて居るのですが、今回の未曾有津波の為、
陸と海を隔てる巨大防潮堤が建設されたり、土地を嵩上げしたりの
防備が行われたが、その為最も美しい松島の景観が失われたりする
哀しさがあります。    気仙沼市場のプレハブの店で昼食食べて
お土産を少し買ったりしながら、一関で団体から離れて、
Y子さんの知り合いの処へT子さんと3人で向かいました。

仙台で有名な伝承千年の宿と言われる「佐勘」の直営庵の
「松庵」へ。
日本三景の一つ宮城の松島。その松島の岬に佇む約3000坪の敷地内に
わずか11室の贅沢な温泉宿。
震災の中心地にありながら、被害を受けず、むしろ何事も無かった様に
室内から夕日を抱いた松島湾を眺めると、どれが現実なのか、、、。
翌日は再び仙台市内のY子さんの実家を訪ねて、お母様のお見舞いをして、
本当にめまぐるしかった旅を終えて、仙台空港から帰阪しました。

    

   

 



東日本大震災の想い出 no1

「想い出はすみれ色」
重ねた年齢と同じく、アルバムがその数を増やして来た嵩高さを、
解消する目的で記録に残してから処分しようと思いついて
昨年5月15日から書き始めて1年が来ようとしています。
最初に「海外旅行」をつぶさに書いて、それから「国内旅行」と
書き進んで来ましたが、いよいよ大詰めに到達してきました。

大体1980年頃から書き始めて現在まで約40年の歴史を書きましたが、
その間日本で生死に拘わった忘れられない出来事が二つありました。
阪神淡路大震災 1995年1月17日 27年前
東日本大震災。 2011年3月11日 11年前。
 阪神大震災の記事は11月8日と今年1月17日の二回書いています。

東北震災の当日、私は梅田の高層ビルの7Fに勤務して居ましたが、

営業に出ていて14時半頃事務所に帰り、鞄を置き

椅子にもたれ掛かってホットした時、目眩を感じました。

段々宙が酷く揺れてきてやっとただ事ではないと
感じました。その後の報道で前代未聞の大災害が東北に降りかかった
事を知ることになります。
東北地方は何故か縁が深く旅行も度々訪れ、ダイナミックな森林、
大きく成長した草花、皆鮮やかな色彩は土壌の豊かさを感じる土地です。
とても大好きでした。それが一変して無平地になって仕舞うなんて悪夢です。

    

     

震災の翌年、秋の研修会は東北復興に協力しようと仙台へ向かいました。

秋保温泉へ。中尊寺」を見学した後震災の中心地へ入りました。
見るも無惨な光景に息を吞むむ思いでした。
一関では震災の「語り部」の方の説明を聞きながら、既に平地になった所へ
花を育てるボランティアの逞しい行動を見せて下さいました。

    

    

  

 

新世界の今昔


2020年2月からコロナが蔓延し始めて既に3年にも及び、
今年のゴールデンウイークは久し振りに街に人の波を見ました。
このまま沈静化して活気ある日常が還って来て欲しいものです。

2022年5月こどもの日と言えども早や大学3年の孫と、初めてと言う
大阪新世界散策へ出掛けました。
先ず4月22日にオープンしたばかりのホテル「星のリゾートomo7]へ
行って見ました。大阪環状線新今宮駅のすぐ傍なので、昔はぎっしり
建物が建っており、電車内では通天閣が見える程度でしたから、
こんな広い庭をどうして確保したのかとの疑問でした。
各地から大阪へいらっしゃった方々を色々案内させて頂くのですが、
20年程前組合委員長Hさんがお出でになった時、禁断の新世界に行ってみたいと、
横暴な要求されたのですが、私も興味があったので行きましょう。と
その近くの通りすがりの方に行き方を聴いたら、その方は私達二人の身なりを
上から下までじろじろ眺め「、辞めときなさい、危ないよ」と留められました。
今は昔。
「二度漬けごめん」の台詞で有名な串カツ屋は店も増えて大繁盛だけど、
ソースは銘々容器に取り分けて、注文はQRコードで。
時代は急速に変わって行きつつあります。

     

2014年に「あべのハルカス」が300㍍を誇る日本一高いビルとして
大阪市天王寺駅傍に聳えました。馬鹿ほど高い所へ上る、と言いますが、
私は決して馬鹿ではありません。高所恐怖症の典型人間なのです。
Fクラブの有志があそこに泊まりたい、との要望に応えて、致し方なく
予約をしました。49Fの角部屋で、ガラス張りの壁から大阪全貌が足下に見えると、
蹲って仕舞いました。通天閣がおもちゃのように光っていました。
そして通天閣周辺の散策もして大いに感動をされました。
2025年の大阪万博に向けて大阪はこれから急激に変化して行く事でしょう。